僕は昔から、好きなことが苦手なことで、嫌いなことが得意なことだった。
たとえば人とコミュニケーションを取ること。僕は得意だと感じている。「話がうまいね」「面白いね」と言われることが多く、自分でもコミュニケーション能力はある方だと思う。ただ、これが僕の嫌いなことでもあるのだ。
そして書くこと。実は僕、小学生の頃は漢字ドリルや作文がとにかく苦手だった。作文に関して当時の僕は得意だと思っていた。しかし、とにかく早く作文を終わらせるために、長ったらしく言葉を並べているだけの文章は、作文でもなんでもない。だが、今こうして文章を生業としているのだから、首をすくめたくなるのは当然だ。
では、なぜ僕は得意なことが嫌いで、苦手なことが好きなのか。それを解剖してみようと思う。
第一に、僕は簡単にできることが嫌いだという点。嫌いなことが得意なのではなく、得意だからこそ嫌いなのかもしれないのだ。僕は昔から天邪鬼で、みんなと反対のことをしたくなったり、簡単なことを褒められるとムカついたりする変わり者だ。だから、得意なことを当然のようにやるのが少し面倒で面白くもなんともなくて嫌いなのだ。飽きてしまう。
妻と結婚して子供ができた時、僕は営業職に就職した。結果的に10ヶ月ほどで退職した営業の仕事だが、初めは順調な滑り出しだった。おそらくそれは、ある程度自分に話すスキルがあったからだと思う。しかし、半年もすると嫌気がさす。もうダメだ、つまらん。面倒で退屈でどうでもいい。そんなふうになって辞めてしまった。
おそらくこれは、得意であっても好きなことではなく、それを無理に押し進めた結果、嫌気がさして嫌いになってしまったのだと思う。
一方、好きなことが苦手なことについてだが、これもおそらくは、苦手だから好きなのでは?と考えた。苦手なことをむざむざ行うことも愚かだが、僕はできないことができるようになると、人知れず優越感に浸れ、気分が良くなる。それが自分だけの力であればあるほど、だ。書く仕事もいい例だと思う。もともとスマホもパソコンも無縁の昭和なレトロ人間だったのだから、今の生活を昔の僕が見たら発狂してパソコンをぶち壊しかねないほどの変わりようだ。
でも待てよ。苦手なことを本当に好きになるのか?
そんな疑問も浮かぶ。たしかに僕は得意なことをむざむざと手放し、あえて修羅の道へと歩みを進めているのは不自然な気もする。だが、答えは至ってシンプルだ。苦手は嫌いとはつながらない。好きが得意とは限らない。つまり、苦手であろうが得意であろうが、好きなことがあれば、全力でそれを“やる意味がある”のだ。
したがって「苦手なことが好き」なのではなく「好きなことが苦手だった」という方程式になる。
中高生のころから、僕はよく大人たちに「もったいない」と言われ続けてきた。多分、それは得意なことを生かさなかったからだ。小学生と中学生の頃に習っていた絵画教室で、文部科学省の日本絵画コンクールで1位と2位を立て続けに受賞するも、興味をなくして辞めた。高校卒業後の進路を決める段階では、就職か進学かで迷っている面々を見て、僕は旅に出た。成績は中間の方で、それなりに就職先や進学先の選択肢はあったため、担任を除いて周囲の先生や親からは「もったいない」と言われた。
大人たちの言い分もわかる。得意を生かすことが手っ取り早いし、明らかにメリットの方が大きい選択をするのが人生において有意義となるはずだからだ。
だが、僕は自分の興味やこだわりを持っていた。好きなことだがら、苦手だろうが得意だろうが人と違っていようが構わない。それが好きなことだから、苦手でも得意でも関係ないのだ。
最も、僕に関しては見事に得意なことが嫌いで、苦手なことが好きなのだから、ほとほとショックを受けるばかりだ。得意のスタート地点よりも遥か遠くの方から努力をしなければ、好きなことができない。だが、それもまた一興なのだ。
好きなことに立ち向かうことも勇気がいるが、かならず良い生き方につながると、信じている。
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